Something for T. #13



デイヴィッド・Tと関わりのある様々な方にお話を聞くこのコーナー。13回目は世界有数のデイヴィッド・Tファンにしてコレクターであり研究家、 ディープなサイトも開設する風間健典さんです。30年以上に渡り、デイヴィッド・Tファンである風間さんは、デイヴィッド・Tと面白く関わっている一人です。これまで何度かお会いして、過去のエピソードを聞かせていただいてるのですが、今回あらためてその30年の歴史を振り返る形でお話いただきました。ぜひご一読ください! ご意見・ご感想、ならびに風間さんへのお便りなどございましたら、 管理人ウエヤマ までお送りください!

【前編】




── デイヴィッド・Tとの出会いについてお聞かせいただけますか?

風間健典さん(以下、風間):最初に本人に会ったのは、82年のクルセイダーズの来日公演のときですね。

── デイヴィッド・Tを一目見ようと彼のファンが駆けつけたと言われる伝説の公演ですね。ニール・オダさん宮田信さんも、会場となった新宿厚生年金会館で彼と最初に会ったと話してました。

風間:そうですね。新宿厚生年金会館は東京公演の2日目で、初日は中野サンプラザだったと思うんです。私が会ったのはその初日でした。

── ということは、日本で最初にデイヴィッド・Tのファンとして本人に会った一人かもしれませんね。どんな経緯で会うことができたんですか。

風間:大学を卒業して最初は銀行に勤めていたんですが、音楽に近いところで働きたいと思って、1980年にパール楽器っていう楽器メーカーに転職しましてね。

── ドラムのメーカーですよね。やはりドラム担当だったんですか?

風間:いや、パールってドラムメーカーとして有名ですが、フルートや電子楽器も作っていて、私は電子楽器部門で採用になったんです。で、入社して1年くらい経ったときにギターのエフェクターを作るってことになって、私にそのエフェクター担当がまわってきたんです。

── ギターのエフェクター担当。

風間:ドラムメーカーはどこもそうでしたけど、有名なミュージシャンに自社の製品を使ってもらって、広告宣伝を兼ねてエンドース契約して、っていうのがパターンだったわけですよ。でも、ギターのエフェクターでそういうことをやってるメーカーは当時まだ少なくて。じゃあ、同じような路線でエフェクターもいけるんじゃない?っていう発想になったんです。で、その製品が完成する頃、ちょうどクルセイダーズが来日するっていう話が重なって。メンバーにギターのバリー・フィナティがいたんで、彼にうちのエフェクターを使ってもらおうということで、会いに行くことになったわけです。

── そのクルセイダーズの来日公演メンバーは、デイヴィッド・Tとバリー・フィナティの二人のギタリストが同行してたんですよね?

風間:そうです。もちろんその頃、私は既にデイヴィッド・Tにハマってたんですが、そのエフェクターをデイヴィッド・Tに使ってもらおうとは思わなかったんですよ。彼がエフェクター使わない人だってことは知ってたし、ファンとしての私もデイヴィッド・Tにはエフェクターなんて使ってもらいたくなかったし。コーラスをかけたデイヴィッド・Tのギターなんて聴きたくないわけですよ。ファンの発想としてはごくごく当たり前の感覚だったんですよね。

── メーカー担当者のジレンマですね。

風間:だから、バリー・フィナティに対象を絞ったんです。たぶん、彼ならエフェクターに興味を示すだろうって。もちろん、会場にはデイヴィッド・Tが横にいるわけだから、私としては仕事は別にして、ワクワクしていたわけです。でも実は、バリー・フィナティとも面識はなくて、唯一接点があるのがドラムのスティックス・フーパーだったんですね。当時、スティックスはパールのドラムを使ってたんで、その関係でバックステージの出入りが許されたんです。なので、スティックスに会いに行くのに便乗して、バリーに製品を売込むっていう目論みだったわけです。

── なるほど。そういう作戦ですか。

風間:翌年の83年もクルセイダーズは来日するんですけど、スティックス・フーパーがメンバーから抜けちゃって、代わりにンドゥグ・チャンクラーがドラムだったんです。ンドゥグはヤマハのドラム使ってるんで、パール楽器としてはそのツアーに接近できないわけです。翌年だったらおそらく会場入りはできなかったでしょうね。

── 一年違っただけで運命が変わったわけですね。

風間:82年の来日が実現して、なおかつ私がパール楽器でエフェクター担当になったという、もろもろの偶然が重なってのことだったんですよね。で、やっぱりスティックス・フーパーがいないと全ての話が始まらなかったかな。

── ある意味、スティックス・フーパーのおかげだと。

風間:そうかもしれません(笑)。

── 1968年にデイヴィッド・Tは初来日していたとはいえ、事実上、日本のデイヴィッド・Tファンが楽しみにして待っていた最初のコンサートが、この82年のクルセイダーズのライヴだったわけですよね。

風間:そうだと思います。私も68年の来日のことは知らなくて、本人に「日本は初めてですよね?」って聞いたら、「いや68年にスティーヴィー達と来たよ」って言われて。

── 確かにそのことを知ってる人も当時は少なかったハズですね。で、いよいよデイヴィッド・Tと会う当日はどんな感じで?

風間:東京公演の初日は1月7日だったんですけど、この日は年末年始の休み明けで職場の仕事始めで。

── 年明け早々、慌ただしい(笑)。

風間:バリー・フィナティにはリハーサルのサウンドチェック直前にエフェクター本体の製品説明をしたんです。時間が押してたのでステージの上でね。すると当然、メンバーがぞろぞろとステージに現れて来るんです。私はしゃがんだ格好でバリーにエフェクターのつまみをあれこれいじって説明してたんですけど、ちょうどその横を「何やってるんだろう?」って感じで私の肩越しにデイヴィッド・Tがちらっとのぞき込んで、通り過ぎていったんです。その後ろ姿をしゃがんだ姿勢から振り返った感じです。「あ〜、デイヴィッド・Tだ〜」って。

── そのときがいわゆる「初の生デイヴィッド・T」ですね。

風間:そうですね。その後すぐサウンドチェックが始まったので私は客席に下りてその様子を見てました。でも良く考えると、デイヴィッド・Tとバリー・フィナティだと、あきらかにデイヴィッド・Tのほうが格上だろうし、そんな格上の人を差し置いてバリーとだけ話を進めるのも失礼にあたるかなって思ったんです。デイヴィッド・Tも何やら興味ありげな顔してたということもあったので、思い切って彼にもエフェクターの話をしてみようかなと思ったんですよ。ま、エフェクターなんて彼は絶対使わないだろうって心の中では思ってるんですけど、一応、仕事上というか立場上というか、勧めてみようかと。

── なるほど。

風間:サウンドチェックが終わった後にステージでデイヴィッド・Tと挨拶したんです。「おおっ!」て感じでしたね。「ああ、デイヴィッド・Tだぁ〜」って感じで、もうガチガチでね。英語も得意じゃなかったから、いっしょにいたチーフの人に話をしてもらって。すると意外にもデイヴィッドはエフェクターに「興味はあるよ」って言うんです。そんな返事が返ってくるとは思ってなかったんですよ。エフェクターはバリー・フィナティの分しか持ってきてなかったんで、じゃあ、明日あなたの分も持ってきますよってことになって。

── ふーん、意外な返事ですねー。

風間:そのとき彼にこう話したんです。「ところで、実は私はあなたの大ファンで、あなたがエフェクターを使わない事は充分知っている。そこのところは私はよくわかってるから」って。でも、商品を勧める側の人間からそんなことを言われたら、デイヴィッド・Tにしてみると矛盾した発言なので「じゃあ、オレはどうしたらいいんだよ」ってな気分ですよね。変なこと言っちゃったと後で思ったんですけど。

── 結局、そのエフェクターを翌日デイヴィッド・Tに持っていったんですか?

風間:はい。2日目の会場だった新宿厚生年金会館に持って行きました。個人的に、サインしてもらうためにODE時代のソロアルバム3枚も一緒にね。それでホントにファンなんだと信じてもらえたと思います。一応、仕事なんで「実際にあなたが使おうと使うまいと、あなたがお勧めするエフェクターだということで、広告に使ってもいいですか」って話を切り出したんです。返事は「OK」でした。

── すごい! そんなことがあるんですねー。

パール楽器時代に風間さんが担当した雑誌広告。右にバリー・フィナティ、左にデイヴィッド・Tが写っている。エフェクターを手にニッコリ笑うデイヴィッド・Tの姿は貴重!でも1ファンとしてはこれで良かったのかどうか悩んだという。


風間:それで出来たのがこの広告で(※右写真)。快諾の返事をもらったのが公演2日目、翌日の公演3日目も同じ新宿厚生年金会館が会場で、その3日目に写真撮影になったんです。私はパール楽器に入社した当時は、電子楽器部門というところの販売促進担当兼リペアマンという立場だったんですが、ちょうどその翌年に営業部門が統括されて、いわゆるアーティスト・リレーションを兼ねた広告宣伝部門になって、そこの電子楽器担当という身分だったんです。そこでは、広告やカタログを作る仕事から、お店廻って営業したり何から何までやらないとだめなわけです。逆にいうと何でもやれたわけで。

── なるほど。

風間:リハーサル前に機材を渡して、一通り説明して、リハのときに実際に音出ししてもらって、コンサート本番が終わってまた楽屋で話をしたりして。その後、滞在先のホテルのコーヒーショップに行って待ってるっていうパターンですね。それこそ深夜0時廻ってる頃にですけど、メンバーがみんな部屋から降りてくるんですよ。で、そこで団らんするっていう感じで。そんなパターンを繰り返してましたね。あ、でもデイヴィッド・Tは話はよく聞いてくれたけど、一度もエフェクターの音を出そうとはしませんでしたね(笑)。

── やっぱり(笑)。でも、楽しい時間ですねー。

風間:話が終わって帰る頃は、もう深夜3時を軽く廻ってるっていう。それが、東京公演の毎日の日課のようになってましたから。

── 当然、翌日の朝は普通に会社に出勤なわけですよね?

風間:もちろん。まだ私も30歳前半で体力もあったので出来たんでしょうけどね。

── メンバーはホテルにずっといるっていう感じだったんですか?

82年クルセイダーズ来日公演のときのツーショット。後ろに写るのは、たまたま通りかかったバリー・フィナティ。


風間:そうですね。どこか遊びに行くってわけでもなくって、ホテルのコーヒーショップでお茶を飲みながら喋りながらっていう雰囲気で。あ、あとホテルが新宿だったから、彼らは昼間のオフの時間はヨドバシカメラとか電気屋さんにも買い物に行ってましたね(笑)。

── 素敵な時間の過ごし方ですね(笑)。

風間:84年の来日のときは、阿川泰子さんの『Gravy』ってアルバムが発売される頃で私がそれをたまたま持って楽屋に行ったらデイヴィッド・Tが「それなに?」っていうんで、「これ、あなたが弾いてるLPですよ」って言ったら、サンプル盤をまだもらってなかったようで「まだ聴いてないんだよ」と。じゃあ、これ差し上げますよって本人にその場で差し出したんですよね。すると「ありがとう。で、幾ら?」って言ってポケットからお金を出そうとするんです。きっちりとした人なんですよね。そんなのいらないよ!って慌てて制したんですけどね(笑)。

── 彼らしいですね(笑)。

風間:その後、85年までクルセイダーズで毎年来日するんですね。東京公演はずっと見てたんですけど、85年の「ライヴ・アンダー・ザ・スカイ」の公演だけ見にいけなくって。ちょうど長男が生まれるのと重なってしまったんで。

── そうでしたか。

風間:それ以降、来日の機会がしばらくなくなるんですよ。それから何年か振りで来日したのが、例の汐留PITでのライヴだったんです。

── 89年の「TOKYO SOUL VOLCANO」ですね。バンド・オブ・プレジャー結成のきっかけになったというイベントの。

風間:そうです。ホントに久しぶりのデイヴィッド・Tとの再会で。当時、私はパール楽器を退社してパールの広告を扱う広告代理店で仕事をしていたんですけど、この公演の楽屋で、たまたまパールでピーターソンのアンプを担当していた人に会うんです。元の会社の同僚だったんで「どうしたの?」って声かけたら「いや、デイヴィッド・Tにピーターソンのアンプを使ってもらえるように勧めたいんだけど、風間さん、ちょっと繋いでもらえません?」って頼まれて仲介することになるんです。それがきっかけでデイヴィッド・Tは、バンド・オブ・プレジャーで活動している間、ピーターソンのアンプを使うことになるわけです。

── そうだったんですか。

バンド・オブ・プレジャー時期にデイヴィッド・Tが使用したアンプ「ピーターソン」の雑誌広告。キャッチコピーの“私のもう一人の友人を紹介しよう”と、デザイン原案は風間さん作。


風間さんのプランをデザイナーが絵にした上記広告のラフスケッチ。


風間:そんな経緯もあったので、そのアンプの広告の仕事を、担当ではなかったんですが、特別に手伝うことになって、デイヴィッドにも登場してもらうことになったんです。それがこの広告です(※右写真)。撮影のときにはニール・オダさんもいっしょに来てくれてね。

── このときはまだデイヴィッドはバードランドを使ってたんですよね。

風間:そうですね。だから「古くからの友人=バードランド」と「新しい友人=ピーターソン」っていうつもりで広告を考えたんですね。でもバンド・オブ・プレジャーになって、わりと早いうちにアーテックスのギターに換えたと思います。初めはあまりしっくり行ってなかったようだけど、何回かモデルチェンジして、最終的には結構いい音になってましたね。

── ってことは、この広告はデイヴィッド・Tがバードランド持ってオフィシャルに残ってる最後のほうの写真ですよね。

風間:そうなりますね。その広告作るとき私のプランでデザイナーが書いたラフ案がこれです(※右写真)。こんな感じで写真を撮りたいんだけどって彼に説明して。「よしわかった」ってOKしてくれたんですけど、ホントは彼のサインを右下あたりに小さく入れる予定で実際デザイナーが入れていたんですが、イメージを説明し始めたら全てを話し終わる前に、嬉しそうに「じゃ、ここにDavid T. Walkerって入るのかな?」って、大きく自分のサインをドーンと書いてくれました(笑)。





── ドリカムの中村正人さんは高校の後輩にあたるんですよね?

風間:そうなんです。といっても彼は8歳年下なんで、在学の時期はちょっとズレてるんですけどね。

── 出会うきっかけはどんな感じで?

風間:彼のブログ(※ドリブログ 07年5月16日〜18日分)にも書かれてますが、ちょうど私が大学時代、地元で音楽サークルのようなものをやっていたんです。で、自分たちがコンサートを演るのに、客を呼べそうなグループをスカウトしてくるってことをよくやってたんです。それで、地元のコンサートを廻って良さそうな人材を見つけては声かけて引っ張り込むっていう。スカウトしつつ、育成しつつ、というね。そんなとき、私の妹が見つけてきたのが当時中学生だった中村正人君のグループだったんです。彼らが中学3年生で高校受験を控えた頃で、高校は私の母校を志望してるっていうんで、じゃ受かったらうちに遊びにおいでって伝えてもらってたんです。そしたら無事受かって、ちょくちょくうちに遊びにくるようになったんです。

── 中村正人さんのブログでは、風間さんのことを“音楽の先生”と語ってましたね。

風間:いや〜、特に先生というのではないんですよ。でも学校が近いので、彼は学校帰りにそれこそ毎日のようにうちに遊びに来てましたね。一緒にレコードを聴いたり、いろいろなことを話しました。年齢は少し離れてましたけど、私の好きなソウルミュージックを彼も好きになってくれたし、感性が近かったんでしょうね。彼は最初、フォークギターを弾いてましたが、「正人、ベースやらない?」って言って、ウィルトン・フェルダーやらジェイムズ・ジェマーソンやらを聴かせていたら、ある時「ベース買っちゃいました」と言って、うれしそうにニコニコ笑ってベースを持ってやって来ました。

── 「ベーシスト中村正人」の誕生ですね。

風間:ダニー・ハサウェイのライヴ盤で弾いてるウィリー・ウィークスのベースソロなんて絶対にできないだろうと思って、半分冗談で「コピーしてみたら?」って言ったら一週間くらいして「こんな感じですかね」って言ってやり始めるわけですよ。マセた高校生を作ってたわけですよね。

── いっしょにバンドも演ってたそうですね。

風間:いろいろと演りましたね。70年代後半のディスコミュージック全盛の頃になると、青山の私の友達の店でいっしょに他のお客さんの歌の伴奏したりとか、お店が終わったらみんなで六本木のディスコに行くっていうような感じでね。その後、正人はプロのミュージシャンとして歩み始めるんです。しばらく音信不通だったんですけど、何年かして久しぶりに会ったとき「今度、歌のうまいヴォーカリストといっしょに演ることになったんですよ」って言われて。それが今の吉田美和さんで、ドリームズ・カム・トゥルーなんです。

── へえ、そうだったんですか。

風間:ドリカムの初めてのコンサートのとき、正人が招待してくれたので見に行ったんですよ。どんな音楽演るんだろうと思ってたら、そこで聴けた音楽は、自分もこんなのが演りたかったなーっていう音楽だったんですね。それがすごくうれしかったんです。私や正人がいっしょに演ってたような音楽を、彼はプロとして具体化してくれたんだなって思って。

── なるほど。

風間:その後はもうご存知の通り、彼らはどんどん大きくなっていって。でも、正人がラジオの番組持ったときも、ネタを探しがてら、うちに電話してきたりしてね(笑)。そのうち、ロンドンでレコーディングしてきましたよーなんて連絡があったり。レコードもいっぱい買ってきましたよって。マリーナ・ショウのアルバム『Who Is This Bitch, Anyway ?』もありましたよ、なんてね。

── 師弟関係は続いていく、と。

吉田美和
『beauty and harmony』('95)
200枚限定でプレスされ関係者のみに配られたアナログ盤ジャケ


風間:その後、吉田美和さんのソロコンサート「beauty and harmony」ツアーで、久しぶりにデイヴィッド・Tと再会するんですけど、あのツアーはガードが固くって、なかなか楽屋に入れなかったらしいんです。でも私は正人が招待してくれたんで楽屋にも入ることができたんですね。すると楽屋にいたデイヴィッド・Tが「どうやって楽屋に入ってこれたんだ?」と。いや実はねって、私と正人の関係を話したんです。正人にあなたの音楽を聴かせたのは実は私なんだよってデイヴィッドに言ったら「そうか、じゃあ、お前にいくらか払わないといけないな」なんて言われて(笑)。

── (笑)。

風間:この「beauty and harmony」ツアーも感慨深かったですね。自分が好きだったような音楽を、正人が代わりにやってくれたっていうところがあって。彼に私の想いが伝わってたんだなっていうことが確認できた感じがして、とてもうれしかったんです。ツアーに同行したメンバーみると、あのマリーナ・ショウのアルバムのサウンドで演りたかったんだなってこともわかりましたし。正人の夢のひとつが叶ったことでもあったと思いますけど、同時に私の夢も叶ったという感じで、ある意味、私にとっても“Dreams Come True”なのかなって、思いましたね。

風間さんが現在活動を続けるアマチュアジャズバンドの「IMO BAND」。左端に風間さん。「ビッグバンドのギターなので、カウント・ベイシー・オーケストラのフレディ・グリーンのスタイルが要求されるんですけど、ときどきそれに抵抗して、曲によってはデイヴィッド・Tのギタースタイルをこっそり入れるんです」とはご本人の弁。


── ああ、なるほど。

風間:私は今、高校のOBや地元の仲間でやってるアマチュアビッグバンドでギターを弾いているんですけどね。こないだコンサートを演ったんですけど、正人が花を贈ってくれたんです。

── へえ、忙しいスケジュールの合間を縫って。

風間:そうなんです。バンドメンバーは高校のOBもたくさんいるので、私と正人の関係を知ってる人も多いんですけど、中には知らない人もいて。だから、会場に彼からのお花が届いたときにびっくりしてる人もいてね。なんでドリカムの人からお花が贈られるの?って。

30年来の愛器バードランドモデルを抱えてプレイする風間さん。


── そう思うのも当然ですね。

風間:コンサートの後半に「花束タイム」ってのがあって、メンバーがそれぞれにお花などをもらうコーナーがあるんです。で、受付に飾っておいた正人の花もここで特別に紹介してもらいました。コンサート始まる前に司会者の人に経緯を説明しておいてね。

── 音楽的にずっと続いてる関係があるって、いいですね。

風間:今度発売される正人のブログ本に付録でCDがついてて1曲デイヴィッド・Tがギターを弾いてるんですけど、そこに収録されてる曲は、昔、私たちの仲間うちで演奏していたオリジナル曲なんです。先日もその件で正人から連絡があって、久しぶりに昔の仲間と連絡を取ったりしてね。でも、その曲のバックでデイヴィッド・Tがギターを弾いてるってのがどうも不思議な感じで(笑)。なんか信じられない気分なんですよ。



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