Talk To T.



David Tとお話をするスペシャルニューコーナー「Talk To T.」が始まりました。と言ってもDavid Tと話をする機会など滅多にあるわけではありません。2回目が実現するかどうかはまったくわかりませんが、とりあえず第一回目は、2003年8月に実現したDavid Tとの対面のときのことを振り返ってみたいと思います。短い時間でしたが、David Tは実に丁寧に誠実にいろんな話をしてくれました。そこでのお話を彼の発言を交えながら紹介していきます。ご意見・ご感想などございましたら、 管理人ウエヤマ までぜひぜひお送りください! それではどうぞ。







 2003年8月、ドリームズ・カム・トゥルーのライブツアー参加のため来日中のデヴィッド・T・ウォーカーに会うことができるという夢のような機会があった。「会う機会」と簡単に書いたが、考えてみればこれは大変なことである。文字通り「夢のよう」なことなわけである。デイヴィッド・Tのファンとして、こんなにうれしいことはない。

 そのときの会話の一つが上のやりとりである。会話といっても、僕の英語力ではほとんど会話にはならない。そこで今回、英語が堪能なデイヴィッド・Tファンのお二人に、この対面の場に同席いただくようにお願いすることにした。

 一人は本サイト内のコーナー「Something For T」にもご登場いただいた宮田信さん。洋楽インディーズレコード会社「MUSIC CAMP」を主催する宮田さんは、デイヴィッド・Tの3rdアルバム『Plum Happy』の国内盤ライナーノーツを執筆するなど、多方面で活躍するデイヴィッド・Tファンを公言してやまないファンの一人である。

 もう一人は、今回の「ご対面」の実現において適切な助言をいただいた方であり、10年以上もデイヴィッド・Tと個人的に交流のある豊田麻衣さん。英語堪能、デイヴィッド・Tの日本の友人の一人で、かつ有数のデイヴィッド・T関連アルバムコレクターでもあるというマニアックな才女な方である。

 そんな二人のお力を多大にお借りしながら、デイヴィッド・Tとの対面のときがやってきたのである。お二方には感謝の気持ちでいっぱいです。この場をお借りしてお礼を申し上げます。





 対面当日のこと。いきなり大失態をやらかしてしまった。待ち合わせの場所を間違えてしまったのだ。そのことに気がつき本来の集合場所に30分遅れて到着。本当に冷や汗モノの瞬間だった(みなさま本当に申し訳ございませんでした)。

 と、気を取り直す間もなく、デイヴィッド・Tの登場である。5月の吉田美和さんのソロコンサートツアー以来、2度目のご本人との再会だ。握手。HUG。そして緊張。心臓バクバク。気分が一気に高揚し、冷や汗が一気に熱を帯びた瞬間だ。

 夕食を食べながらお話を、ということで、4人は歩きはじめた。なんだかとても不思議な光景だった。東京の街を以前からの知り合いのごとく歩いている4人。隣に歩く人は、あのデイヴィッド・T・ウォーカーなのだ! 超のつく巨匠なのである。後から考えると、このときの何気ない時間が、最も気分の高揚していた瞬間だったのではないかとも思うのだ。

 そして着いたのはインド料理のお店だった。デイヴィッドは野菜好きで、日本人が好むような肉食をあまり多くは食べないとのこと。なので日本人との会食のときは、野菜と肉のどちらでもチョイスできるような店、かつ、もともとデイヴィッド自身スパイシーな食べ物が好きということもあって、よくカレー料理店を訪れるようだ。それぞれ料理を注文し、続いて乾杯。そしてぼちぼちと会話が始まったのである。何度も言うが英語での会話だ。ドキドキである。豊田さんと宮田さんに逐一通訳をしていただきながら、デイヴィッドが何を言ってるのか、なんとか話の内容をつかみながら、僕はその姿を、その視線を、全てを見逃さないように追いかけようとしていた。でもたぶん、僕はそのとき完全にいっぱいいっぱいだったです。





 さて、ここからは簡単にデイヴィッドのプロフィールを振り返りながら、幾つかの質問に答えてくれたデイヴィッドのコメントと合わせて書き進めることにする。



 デイヴィッド・T・ウォーカー。1941年6月25日、オクラホマ州生まれ。黒人の父親とアメリカン・インディアンの血を引く母親を持つ8人兄弟の長男。幼少の頃から畑と農場に囲まれた環境の中で毎日を過ごす。その頃のことをデイヴィッドはこう語ってくれた。

「14歳のときまで、セントラルカリフォルニアのすごく大きな農場で育ったんだ。ほんとに田舎だったので、畑仕事が終わったあと、夕方にはみんなが集まって歌ったり演奏したりしていたね」

 歌をうたい、楽器を演奏する。そんな光景が日常のものとして当たり前にそこにある世界にデイヴィッド・Tは育った。音楽への入口は既にこの時点で開かれていたのかもしれない。

「畑で歌ったり演奏したりしていた人たちが私にとって一番影響を受けた人たちなんだ。そういった私の周りの環境の中でミックスされた文化が、私に影響を与えているんだと思う。そういったミックスされたカルチャーから感じることがプレイにも影響しているかもしれないが、大抵の場合、すごく平和的なことを感じて弾いている」

 意外にも彼が最初に手にした楽器はギターではなかったそうだ。小学校の頃、デイヴィッドはまずサックスを吹いた。その後、中学、高校ではマーチングバンドを経験する。そんなある日、父親がなぜか家に持ってかえってきたギターが、最初に触れたギターだった。

 そして15歳のとき、一家はロスに戻ってくる。その頃いつも通っていた近所の教会ではゴスペルが演奏されており、デイヴィッドはその光景に惹かれていく。ここで聴いた音楽は幼い彼に大きな影響を与えた。この体験がその後の彼のプレイの基礎を作ったといっても過言ではない。ブルース、ジャズをはじめとしたルーツミュージックの要素が、彼のプレイのあちこちから感じとれるのはそのためだ。

「いつものように教会の中で皆が演奏する姿をみていたら、ある日牧師さんが近付いてきて『君は音楽が好きなのかい、だったらギターを弾いてみたらどうだい?』って勧められたんだ。それが僕がギターを弾くきっかけだね。だが、教会でいつも演奏していたわけではない。私がギタリストとして仕事を開始してからしばらく経って、お礼のために教会に行って演奏したことはあるけど、その当時に教会で演奏してたわけではないんだよ」

 教会ではもちろんゴスペルの影響も受けることになる。しかし彼の興味はむしろギターにあったのではないかと思う。ギターを弾くきっかけを与えてくれたのが教会だったのだ。

「教会でギターを触ったことがもっとも大切なことだった。教会ではスピリチャルな曲をやったことがたくさんあったけど、そこでギターを触るチャンスがあったことが、もっとも大切なことだった。教会でギターを触ったこと、それも誰かを触るようにギターに触るということが重要だということをそのとき知ったんだ。まさにそのことがもっとも重要なことだと思うね」

 デイヴィッド・Tのプレイを見たことがある方はおわかりだと思うが、彼のピッキングは実に特徴的である。手首を鋭角に曲げ、親指と人さし指をほぼフラットにしてピックを握る。弦へのタッチは驚くほど細かく、フレーズに応じてその強弱の付け具合を変化させているのがわかる。しかしこれは誰かに特別なレクチャーを受けたわけではなく、全くの独学だそうだ。

「当時やっていた音楽はゴスペルやブルース、カントリーなどの3コードの音楽だ。私の父がそのようなジャンルの音楽を聴いていたせいもあって、私も好んで聴いていたよ」

 原点はここにある。しかし音楽のジャンルうんぬんの話よりも、いかにギターと接するか、という点で彼なりの表現のベースがこの時点で確立されたのではないだろうか。例えば、ギタースタイルという点について彼自身がどのように考えているか聞いてみたところ、次のように語ってくれた。

「自分にギタースタイルがあるということは自分では意識したことがなかった。フレーズの一つ一つも意図して弾いたものはなく、自然と出来上がっていったものなんだよ。でも周囲の人からは78〜79年にはスタイルが確立されたと良く言われるんだ。だから後から振り返ってみて、『あー、自分のスタイルはこういうものなんだ』と自分でも認識するようになったんだ。アルバムによってプレイの違いがあるのも、何か目的を持って変えたわけではない。専門の学校で習ったわけもないから、自然と自分が弾きたいようにできあがっていったのが私のスタイルなんだと思うよ」

 まさにその根本になっているのが「誰かを触るようにギターに触れる」という感覚なのだろう。

「自分のスタイルはまだ変化していると思うよ。核となる部分は変わらないと思うけど、少しずつ変化はあるんじゃないかと思っている。でも正直、自分ではよくわからないんだ。どう思う? 教えてほしいよ(笑)」





 さて、この頃のデイヴィッドの活動をまとめて書いてみることにする。15歳のとき教会でギターを弾くきっかけを持ったデイヴィッドは、友人たちと初のバンド、キンフォークスを結成し、ロスのクラブでブルースやジャズを演奏する。その後、高校を卒業すると同時に親元を離れキンフォークスと面々といっしょにニューヨークへと旅立つ。ハーレムの安ホテルに住み、近くのクラブで演奏する毎日を送る。デイヴィッドの最初期のアルバム録音として知られる64年リリースのエタ・ジェイムズのライブもちょうどこの頃だ。

63年9月録音のライヴ盤
Etta James
『Rock The House』('64)



『Tamla-Motown Festival Tokyo '68』
スティーヴィー・ワンダー、マーサ&ザ・ヴァンデラスらのモータウンご一行の一員として来日したステージを録音したライブ盤


 その後、キンフォークス一行はシングルを二枚リリース。さらにデイヴィッドはキンフォークスとしてモータウンと契約し、マーサ&ザ・ヴァンデラスとのツアーに同行。1968年には、スティーヴィー・ワンダーとマーサ&ザ・ヴァンデラスによるモータウンご一行ツアーにギタリスト兼バンドマスターとして同行し、初めて日本の地を踏む。そして同年、前年の67年に録音した初のソロアルバム『The Sidewalk』を発表する。

 このレコーディングはキンフォークスのメンバーが起用された。デイヴィッドはこの後、続く2nd『Going Up!』、3rd『Plum Happy』まで多少の入れ替わりがありつつもキンフォークス時代のメンバーを主体に録音を続ける。特にトレイシー・ライトのベースは大変特徴的なフレーズと音色を奏でており、このアルバムの色彩を彩る一役を担っている。

「トレイシーは小学校のときからの知り合いなんだ。でも今はもう演奏していない。彼はもうベースをやめてしまったんだ。残念だけど今でも友達だから全然問題ないよ」

 この68年にはモータウンはロスに活動の場を移しはじめる。それに合わせてデイヴィッドも、ウィルトン・フェルダー(B)やポール・ハンフリー(Dr)らと多くの仕事をこなしていく。1970年には「The Big Sur Folk Festival ビッグ・サー・フォーク・フェスティバル」にメリー・クレイトンのバックギターとして参加。このことがきっかけで活動の範囲は急速に広がりを見せ始める。この辺りからの活動についても聞きたいことはたくさんあったのだが、今回の時間の中ではそこまで伺うことはできなかった。またの機会にチャレンジしようと思っている。





「ロスのとある大学でプレイしていたときODEの社長がたまたま見に来ていたんだ」

4thアルバム『David T.Walker』



5thアルバム『Press On』



6thアルバム『On Love』



 そのことがきっかけで彼はODEと契約しソロアルバムを制作する。このODE時代は彼にとっても油の乗り切った頃。同じODEレーベルにはキャロル・キングや、バックバンドをつとめたメリー・クレイトンらが所属していた。セッションを含め多忙で充実した日々を送っていたという。

「キャロル・キングはいいソングライターで、彼女といっしょにライブもやったりしたね。その頃はものすごく忙しかった。自分のうちの電話をチェックする暇もないくらい忙しかったよ。また、その頃は自分で車を運転してスタジオにいっていたよ。当時のA&Mはチャップリンの映画用のスタジオを買ってレコーディングスタジオにしたんだ。私はそういうスタジオで演奏できることがとてもうれしかった。そして、多くの人がこのA&Mスタジオで演奏したがっていたね」

 このODEレコードでは『David T.Walker』『Press On』『On Love』の3枚のソロアルバムを発表。僕も大好きなこの3枚にはデイヴィッドのギターの真髄が堪能できる名演が数多く収録されているが、未だにCD化されていない。一時、その動きもあったようだが、現在まで一度もその夢は実現できていないのだ。デイヴィッドのことを知るには避けて通れないアルバムなだけに、ぜひとも今、多くの人に届いて欲しいと願わずにはいられないのだ。





 ODEでのソロ活動と並行して、アーティストとのセッションの数もこの頃から格段に増えていく。プロデューサーやコーディネーターが同じ場合のセッションでは毎回同じようなメンバーが顔をそろえることもしばしばだったようだ。そんなミュージシャン仲間の一人にストリングスアレンジの魔術師、ジーン・ペイジがいる。

「ジーン・ペイジこそ私以上に忙しい人だった。彼に知り合えて本当によかったし、彼もそう思ってくれていると思う。彼は私のプロフィールを知って、私に連絡をとってきてくれた。たぶんコマーシャルソングか何かのセッションだったと思うが、彼との仕事が私のロスでの最初の仕事だった」

 ジーン・ペイジとの仕事が多かったのはもちろんデイヴィッドの腕が確かなものだったからに違いないが、もう一つの大きな要因として、コーディネーター役としてジーン・ペイジがらみの仕事ではよく関わっているオリビア・ペイジの存在が大きい。ジーン・ペイジの親族でもあるオリビアは、プロデューサーからのリクエストがあるとミュージシャンをコーディネートするコントラクターの仕事を担っていた。慣れているミュージシャンはやはり調整しやすいのか、彼女が関わった仕事では同じようなメンバーが顔を揃えている。数あるデイヴィッド・Tのセッションの中でも、彼らが関与している仕事はとても多いので、僕もアルバムクレジットに彼らの名前があった場合は、注意してチェックするようにしている(はずれも多いのですが)。





 ところで、以前、彼にアルバムタイトルにもなった「Press On」という言葉の意味を尋ねたことがある。デイヴィッドによると「Optimism(オプティミズム=楽観的、楽観主義)」という言葉に近いニュアンスがあるという。「Press On」という言葉は僕には直感的に「押し進める」というニュアンスが感じられたので、デイヴィッドの答えは、なんとなくわかるようなわからないような、という感じを持っていたのだ。デイヴィッドの中でも思い入れのある大切な言葉に思えるため、今回あらためてその辺りのことを聞いてみたところ、彼は次のようにコメントしてくれた。

「『Press On』という言葉にはいろんな意味がある。たいていは諦めないでとかの意味に使われるが、私は、自分をもっと上のところに導くように注意するような意味として使っている。私がこの言葉を口癖のように使っているのをみんな知ってるので、私が『プレスオン』というと、同じように『プレスオン!』と返してくれる。音楽に対しても自分に対してもいろんなことを諦めず向上していくという気持ちを心掛けている。プレスオンし続けていかなければならないと思っているんだ」

 デイヴィッドが書くメッセージにはこの「Press On」という言葉が文末に添えられていることが多い。この言葉に込められた思いはデイヴィッド自身に深く刻まれているのだろう。

「黒人もアメリカンインディアンの人たちもいろんな問題を抱えていた。若い頃、南部のほうで働いているとやはり差別にあったし、私の両親の頃はもっとひどかったはずだ。そういった悲しい経験もたくさんある。でも、そこから起こるストレスをポジティブな方向に働かせていきたいといつも思っているんだ。いろいろあるけど『楽しいじゃないか』ってね」





 デイヴィッド・Tのオリジナル曲のタイトルは実に不思議なものが多い。そもそも「デイヴィッド・T」の「T」は一体なんのこと? という疑問もある。この「T」については、アルバム『Y・ence』のライナーノーツに書かれている「父がタイロン・パワーのファンだったから」という説があるのだが、別のインタビューでは「Tectonics(=大陸移動説)」の頭文字をとって「T」としたとも話している。しかし、この「Tectonics」という言葉もちょっと聞き慣れない言葉だ。ちなみに『Y・ence』には同名タイトルの楽曲がおさめられている。

 他にも「Real T」や「Y・ence」「Ahimsa」などなど気になるタイトルが目に付く。特に「Y・ence」という言葉などは、その馴染みのない言葉そのものに不可思議な印象を覚えると同時に実は何か隠された意味のようなものがあるのでは?と妙に勘ぐったりしてしまう。オリジナルアルバムのライナーノーツにもこの言葉の意味が簡単に触れられているが、今回あらためてこの辺りの話を聞いてみた。

「Y・ence(イエンス)という言葉にはいろんな意味がある。Yとenceという文字にそれぞれに意味があるんだ。例えば動詞に『ence』という言葉をくっつけると名詞になるよね。ここで言う『Y』というのは『X, Y』という不特定多数をあらわす象徴的な記号として使っている。だいたいはアートなことを意味するような言葉なんだ。私は何かを作る、ということ。ビルを建設することでも音楽を作ることでもいいが、何かを作 るということに使う言葉なんだ」

 思慮深いデイヴィッドならではの言葉である。また彼は「Ahimsa」についてはこう語る。

「アヒムサはインディアンの言葉で、『ガンジス川に住むインディアン』のことを意味するんだ。山に住む人は狩りをしたりして動物を殺して食料にするけど、川に住む人は魚をとったり木を切ったりしてして生きているが動物を殺すことはない。つまり戦うということ暴力的なことが無い世界だ。そういう非暴力的な世界を意味するのが、このアヒムサという言葉なんだ」

 そして彼はさらにこう付け加えた。

「自分のアルバムには数曲でも自分で作る曲があるが、それらには必ず何か意味がある。その時その時に感じていることを曲にして演奏しているんだ」





 ギターを弾くデイヴィッドは知っていても、それ以外のデイヴィッドを知っている人は多くない。普段自宅にいるときなど、何をやってるんだろうか。一日中ギターを弾いてるのだろうか。それとも全く違う趣味があったりとか。その辺りのことについて聞いてみたところ、暇なときは読書をしてることが多いのだそうだ。





「家に小さい図書室があるんだ。そこでよく本を読んでいるよ。話は変わるけど、最初に教会で牧師さんからギターを触ってから、ずっと考えていることがあるんだ。どうして人間は何かを信仰したりするんだろうとか、人間のルーツはどこにあるんだろう、というようなことをね。例えば『仏教』というものを考えたときに、人が信じていることの心の底にあるのもはなんなのか、ということを知りたいと思うんだよ。そういう種類の本をよく読むことが多いね。日本だったら仏教でもいろんな種類の仏教があるということも知ってるよ」

 実際に本人を目の前にして感じたのは、デイヴィッドという人は、とても穏やかに静かに発言をし、そして一つ一つのことを丁寧に話してくれる、ということだ。どこか哲学的な香りさえ漂わせるその雰囲気は、彼がミュージシャンであることを一瞬忘れさせるもう一つのオーラを持っている。その姿は、個性溢れるギタースタイルと一見すると相容れない個性のようにも思えるのだが、実はそのすべてがデイヴィッド・Tという人間を形作っているという意味で表裏一体のものであるとも言える。さらに、常に精神的なものを思考する日常と、「プレスオン!」と前向きにそして楽観的に物事を考える思考の同居。そこにデイヴィッドの個性の真髄が見え隠れしてくる。『Press On』と『Y・ence』が違和感なく存在する個性。それがデイヴィッド・T・ウォーカー、なのだ。

 さらに「ずっと日本に興味がある」とデイヴィッドは言う。

「日本の文化や精神構造が少し理解できるんだ。インディアンは大陸から移動してきた人たちで、そのルーツが日本人にも同じようにあると思う。だから日本語はわからないけど、日本人の文化は感じることができるんだ」

 デイヴィッドが最初に日本にやってきたのが先にも書いた1968年。そのときから現在にいたるまで、数多くの来日を果たしたデイヴィッドだが、日本への興味は尽きないという。僕は1969年生まれなのだが、そのことを彼に言うと彼は穏やかな笑みを浮かべながらこう語った。

「そうか。じゃあ、私は君が生まれるよりも以前に日本の地を踏んでいたことになる。私のほうが日本のことを良く知っているんだね(笑)」





 そう、デイヴィッドはもう何度も来日している。68年のモータウン・コンサートでの来日を皮切りに、クルセイダーズやバンド・オブ・プレジャーでの活動、数多くの日本人アーティストとの共演などなど、ここ30年くらいの日本の移り変わりを事あるごとに見続けてきたわけだ。もともとバックバンドのツアーという仕事が多かったため、健康管理にも人一倍気をつけているようだ。意外なようだが、彼はお酒は飲まない。

「クルセイダーズで来日したとき、ある日本のアルコールメーカーからCM出演依頼があったんだけど、私はお酒が飲めないので断ったことがある」

 依頼した担当者の気持ちはわからないではない。以前は僕もデイヴィッドの風貌から「酒を飲まない」という発想には至らなかった。また、彼には昔から変わらない好物がある。

「私はポップコーンが好きなんだ。なかでも塩味だけのポップコーンが特に好きだね。そういうふうにみんなに常々言ってたら、10年くらい前のことだけど、ホテルの部屋にチェックインしたら、部屋中のあらゆるところにポップコーンが置いてあったんだ。たまげたよ(笑)」

 彼はにっこり微笑んで「ポップコーン」という言葉を連発していた。





 ギター弾きの一人として今回のツアーでのポイントの一つに、ニューギターの登場、がある。最初に目にしたのは5月の吉田美和さんのソロライブでのステージ上のこと。アコースティックギターでは?とも思える外観だったのだが、ちゃんとピックアップがついていた。デイヴィッドは音楽人生の中で、ほとんどギターを変えていない。彼が愛用したギブソンのバードランド、アーテックス社のオリジナルモデルは有名だ。特にバードランドを弾く彼の姿は、70年代、多くのファンを魅了した。そのエレガントな音色に僕も虜になった一人だ。

「あるツアーの途中でギターをなくしたんだ。それでギターを買わなくてはならなくなり、急遽手にいれたのがバードランドだ。25年間使っていたが、ボディが腰のところにあたって擦れてきたんだ。それで日本のアーテックスが自分用に作ってくれたモデルを使うようになった。そして今はカリフォルニアのベニスビーチのショップで作ってもらったギターを使っている。これは、サイズもバードランドより小さくて弾きやすいから気に入ってるんだ」

 バードランドは今メインギターとして活用はされていない。もう引退させたのだそうだ。長年に渡ってデイヴィッドのプレイを支え続けて見守ってきた「愛器」は、彼の自宅にひっそりと息を潜めている。そして、それに代わる新しいギターは彼の細やかなリクエストに応えるべく、日々精進するに違いない。

 最後に、どうしても聞いておきたかったことが一つあった。彼の今後の音楽活動についてだ。例えばニューアルバムのリリースはあるのだろうか?

「新しいアルバムについてはここしばらくは作ろうと考えたことはないんだ。幾つか新しい曲のアイデアを思い付いたり作ったりすることはあるが、具体的にアルバムを作る予定はない。でも、私はきまぐれだから今日言ってることが明日にはまるっきり変わってるかもしれない。そのときの気分によって行動をおこすことにしてる。だから今後どうなるのか誰にもわからないけど、ギターは弾き続けるだろうね」

 自分自身と音楽の関わり。この距離感を十分に熟知して実行できるからこその発言のようにも思える。米国での活動より日本での活動も多くなってきている今、彼の音楽に魅了された人は以前に比べると確実に増えている。これは実に凄いことだと思う。彼のギターを「ギャップを乗り越える素晴らしい音楽性」と語ったのはドリカムの中村正人氏だが、未だに現役でファンを増やし続ける普遍性こそが誰にも真似できない彼の個性そのものだ。「100年弾き続けたギター」という冗談は、その後に「さらに100年弾き続けるはずだ」という思いが込められているようにも思える。そのときが来るかどうかは、本当に誰にもわからない。きっと僕は待ち続けると思う。

 ということで、あっという間に時間はすぎた。本当はもっと聞きたいことがあったはずだし、今思い返すとまだまだ聞きたいこともたくさんある。

 別れ際に、デイヴィッドは少し笑みを浮かべて僕にこう言った。

「すぐにまた会えるさ。プレスオン!」

 なんだか「これでよかった」という気持ちになった。聞きたいことはまた次の機会にとっておくことにしよう。



2003年8月 都内某所にて
構成・文 ウエヤマシュウジ
Thanks to Maki Toyoda, Shin Miyata



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